徳川家康

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静岡県と徳川家康

徳川家康と静岡県は深いつながりがあります。
三河の松平家の嫡男として生まれた徳川家康は、幼少時静岡県一帯を治めていた今川義元の捕虜として駿府の地で過ごしています。
また、織田信長と結んでからは、しばらくの間、三河、遠江、駿河を所領としています。


私の住んでいる静岡県西部地区(古くは遠江地区)には、家康に関連した逸話や地名、などが数多く残されていて
郷土史家の皆さんの研究対象になっていたりします。
ここでおもしろいのは、全国統一を成し遂げ、江戸幕府の礎をつくった家康なのに、この付近に残された言い伝えでは敵から逃げ回っている途中のことや滑稽な話が結構多いのです。
この地を治めていたころは、甲斐・信濃の武田軍勢に押され、三方ヶ原の戦いでの敗戦を筆頭に終始手を焼いていたからかもしれませんね。
家康の一味違った一面を垣間見ることができると思います。


お断りさせて頂きたいのは、逸話、伝承といったたぐいは当時の作り話や後世の人が色をつけたものがほとんど
ですから、史実に基づいたものとは言えません。もちろん中には事実も含まれていますが。
ですからこちらはフィクションの読み物として気楽にご覧いただければ幸いです。

浜松城↑


徳川家康の像→
・徳川家康ゆかりの地名
:小豆餅(浜松市)
武田軍が信濃の国から天竜川沿いに南下して、自らの領内を馬鹿にするかのように通過しようとしているのに業を
煮やした家康は、家臣を引き連れて、迎撃に向かいました。
しかし、多勢に無勢であっさりと負けてしまった家康はほうほうのていでお城に逃げ帰ろうとしました。
敵を引き離してほっと一息をつくと、朝から何も食べていないことを思い出し、お腹が空いてたまりません。
ふと道端を見ると、老婆が茶店を営んでいて小豆餅を並べて売っているではありませんか。
家康は、駆け寄って小豆餅を一つ、二つと口に放り込みました。
すると、武田の追っ手がそこまで迫ってきてしまいました。
家康は慌てて逃げようとします。
慌てたのは老婆です。「お勘定!お勘定!」と叫びながら馬に乗った家康を必死で追いかけてきます。
しばらく走ってもまだ追ってくる老婆を見た家康は苦笑して銭を払ってあげました。
小豆餅という地名は現在も浜松市に残っています。家康がお金を払ったところは現在、銭取(ぜにとり)という
バス停があり、名残を今に伝えています。


:旗見(浜松市)
三方原の戦いで破れて逃げ回っていた家康が、追っての武田軍の旗を確認するために松の木に上って見たという
言い伝えがあります。


:寸座峠(すんざとうげ)(浜松市、旧引佐郡細江町)
狩りに出掛けた家康が獲物を追いまわしてある峠に至りました。
疲れたので、一寸(ちょっと)一休みといって座ったのでそれ以来寸座峠と呼ばれているそうです。


:あみだ橋(浜松市、中沢町)
三方原の戦いで負けた家康は一目散に浜松城に逃げ帰りました。
城までもう少しという中沢村までたどりついたところ、橋が焼け落ちてしまっています。
困った家康は普段からこの中沢村は常楽寺の阿弥陀如来を信心していたので、「助けたまえ!」と必死で拝みました。
すると驚いたことに、その阿弥陀如来の木像が橋のかわりになってくれているではありませんか。
こうして家康は、無事浜松城に逃げ帰ることができました。
それ以来この橋はあみだ橋と呼ばれるようになりました。


:布橋(浜松市)
三方原の戦いで武田軍にこっぴどく負けてしまった家康は、なんとか浜松城に逃げ帰ってきました。
しかし、城に戻ったとはいえ、武田の大軍は城に向かってどんどんと迫ってきます。
お城にはわずかな手勢しか残っていないので、到底武田の大軍にはかないません。
そこで、一計を案じた家臣がお城の近くの犀ヶ崖(さいがたけ)に罠をしかけることにしました。
犀ヶ崖の付近は断崖絶壁が多く、道も入り組んでいるので敵の来る方角からお城に向かって、布の橋を架けて敵を
だまそうとしたのです。
そうとはしらない武田軍は勝利の余韻も冷め切らぬまま、一気呵成に城に向かって突撃してきたものだから
たまりません。
あわれ武田軍の兵士達は崖底に落ちてその大半を失ってしまいました。
今でもその由来で浜松市には、布橋という地名が残っています。
・徳川家康と遠州大念仏
上述したように犀ヶ崖では、たくさんの武田軍の兵士が戦死しました。
それから1年後のことです。近隣の住民が、夕暮れ時になると崖下からうめき声のようなものが聞こえてくるのを
耳にしました。
しかもそれは次の日もその次の日も聞こえてきて、だんだん声も大きくなってきたのです。
付近の住民たちは武田の亡霊が苦しんで呻いているのだと噂をしはじめました。
その噂は次第に家康の耳にも入ってくるようになりました。
困った家康は、死者の霊を慰めるために犀ヶ崖で念仏をとり行うことにしました。
これが遠州大念仏のはじまりだと言われています。
その後、念仏は近隣の村々に広まってお盆の時に死者の霊をなぐさめるようになり、現在に伝承されています。
・徳川家康と姓
戦国時代は、姓を名乗ってよいのは武士など身分の高いものに限られ、庶民はよほどのことがない限り、姓を名乗る
ことができなかったので、姓を名乗るということは大変名誉なことでした。
ここでは、この地域に実在する家康ゆかりの姓についてご紹介します。
:御手洗(みたらい)さん
武田軍との戦いの最中、朝食を取ろうと家康は付近のある庄屋に立ち寄りました。
朝食をご馳走になった家康は、用を足してから手を洗いました。
そのことから家康は、この庄屋に世話になったお礼として御手洗の姓を与えたそうです。


:小粥(おがい)さん
三方原の戦いで敗れた家康は家臣ともはぐれてしまい、逃げ回っていました。
しかし、さすがに疲れたうえに腹も減ってきたので、あたりの民家をのぞくと老夫婦が粗末な粟の粥をすすって
いました。
腹の減った家康には粗末だろうがなんだろうがご馳走で、老夫婦に頼んで粥をわけてもらいました。
老夫婦のやさしさに心打たれた家康は、小粥の姓を夫婦に与えました。
また、お粥を食べたお椀のうえに箸を二本おいた形を模して、家紋として「丸に二引き」も同時に与えたそうです。


:曽布川(そぶかわ)さん
またまた、戦に敗れて逃げていた家康は水の多い田んぼが広がるところにさしかかりました。
ところが周りを見渡しても船などなく、田んぼは深くて甲冑をつけたままではとても渡れそうにありません。
家康が困っていると近くにいた百姓が、背負っていってくれると言いました。
家康は大変喜び、百姓の背に乗りました。
その田んぼはソブ(田渋や水あか)が大変多い田んぼだったので、褒美としてその百姓に曽布川の姓を与えた
そうです。
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